第八十二話:『矍鑠たれ、お滝さん その二』

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せっかくやって来たのです。診察台に上がってもらいました。型の如くに診察を進めていたら、お滝婆さんがさも気の毒そうに筍に云うのです。

「せんせも因果な商売やなあ。こんな皺くちゃな乳触らないかんし、臭うて穢い爺さんも診にゃならん」

「婆さんみたいに立派なおっぱいならな、まだまだ捨てたもんではないのう。若い頃にはさぞや爺さん夢中だったんと違うかい」

筍も負けずに言い返します。

「せんせもすけべやなあ。あんまりいやらしいこといやあすな」

顔が赤らんでいます。色気はまだまで健在なんだよね、お滝さん。

「もう、せんせっ、せんせとあんまり長う話とると後のひとが怒るで。身体に気いつけてな。酒飲み過ぎちゃいかんぞ。悪うなったらいつでも診てや。また来るでな」

診察にやって来て、いや診察にやって来た訳ではないね、でも医者の身体を心配してくれる。全くどちらの台詞なんだか判らんね。

筍診療所にはこんな患者さんが多いのです。待ち合いはまるで集会場みたいなもんだね。みんな話がしたいのです。別に診察なんぞはどうでもいいのです。ですからね、よく云われるような笑い話がここでは本当に交わされるのです。

「あの人、今日はここに来とらんけど、どっか具合でも悪いんと違うかねえ」

ところでお滝婆さんの病名は、そう、典型的なアルツハイマー型認知症。でも話をしているときにはちゃんとその状況に合わせられるのです。ですから都会に住む娘らはお滝婆さんが重度の認知症だなんて、これっぽっちも思ってはいないのです。電話での応対もちゃんと辻褄が合うからです。でもお滝さんの頭には記憶は残らないのです。聞いた先から消えてしまいます。自分の歳も誕生日さえも云えぬのに、娘たちは母親の認知症に気付きません。大変なのはお嫁さんでしょうね。嫁さんといってももうとっくに立派な婆さんだけどね。それとケアマネさんも大変、無理解な娘さんたちのようなんでね。介護サービスの話をしても拒絶するらしい。

にこにこ笑っているお滝婆さんを診ているとね、惚けは神様が呉れた恩寵と思えます。

矍鑠たれ、すべての婆さん、爺さんたち。

婆さんの来院を心待ちにする筍です。

矍鑠たれ、お滝さん。

一ヶ月ほど前、お滝婆さんが死んだとご近所の方から連絡がありました。筍が山を下りてからあれから三年近くも生きていたんだね、お滝さん。玄関先の叢に転がっていたそうです。

辛かっただろうね、お滝さん、生きるのはさ。

どうか閑かに休んで下さい。

死は平穏でしょ?

 

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