第五十三話:『心の臓に雑音が』

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 お春婆さんは七十五歳、若い頃は経理事務でならしたらしい。今も元気に独り暮らしです。性格は気侭、神経質、ええ加減、でも気難し屋、何よりもひとの云うことをきかんのです。可愛い???婆さんです。

 お春婆さんの心の臓には軽度の収縮器雑音が聴き取れます。高齢者によくある動脈硬化による駆出性の雑音でそれほど心配すべきものではありません。心電図検査でも特に異常は指摘できません。ですからお春さんには心雑音のことは黙っていたのです。「雑音が・・・」などと云った日にゃ、どんなに舞い上がることか。考えただけでもおぞましい。考えなくともうんざりです。まあ云えば、婆さんの為を思って内緒にしてあったのです。

 そんなお春さんが住民検診を受けたのです。健診専門施設から派遣された若い医師がお春さんにこう云ったらしい。

「心雑音が認められる。要精密検査だ。直ぐに専門医に診て貰え」

驚いた婆さん、明くる日に診療所にすっ飛んできました。

「先生、せんせ、私の心臓に雑音があると。せんせはいつも私の心臓は問題ない、元気じゃと云うとったけど、昨日の先生はすぐに専門医に診て貰えとお。はよせなあかんと」

 その雑音は今までもずっとあったもの、動脈硬化によるもので機能的には何の心配もないこと、あれやこれやをこんこんと説明しようと試みました。でも婆さんは納得しません。不満がありありと浮かんだ顔をしてます。筍の云うことなど聴いても居りません。途中で説得を諦めました。

「紹介状を書いてくれんか。早よせんと心臓が止まってからではおそいしのう」

止まるような心臓ならどれほど診察のやり甲斐があることか。あの婆さんの心臓、そんな柔なもんじゃない。むしろ毛むくじゃらかもしれん。ましてや、循環器の専門医に診て貰うなど全くの不要。もう説得を諦めてお帰り頂いたのです。勿論、紹介状も書きませんでした。

 二週間後、お春さんがまたやってきました。こんどは前と違って随分落ち着いております。

「循環器の専門にかかったら、せんせがないというてた雑音は確かにあるげな。でもそれほど心配要らんらし。半年に一度くらい心臓のエコーをやるようにと云われたわ」

私がいつも云うとった通りじゃないかと云うと、お春さん済ました顔でこう云うのです。

「せんせに云われてもなあ、安心できんもん。自分の身体は自分がいちばんよう判っとるで」

 筍は白けた思いで、声にならぬ声で叫んだのです。

「この婆あ、なんや心臓に雑音があったほうがええんかい。それならそうと、早よ云えや。あんたのため思うて黙っとったわいが阿呆やった」

 ほんに可愛い婆様です。きっと長生きするんやろね。疲れるね。

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