第百四十九話:『安楽死と尊厳死』

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2006年、末期がん患者など7人の人工呼吸器を本人あるいは家族の同意なしに停止、患者を死に至らしめたとして、富山県の市立病院に勤務する50歳の外科部長が取り調べを受けた事件、皆様ご記憶でしょうか。

この事件の犯罪性とか医の倫理の問題などを別にしても、事件は医療の根本的な問題を提起しております。

ひとの死とはいったいどうあるものなのでしょうか。脳死がひとの死でしょうか。心臓死がひとの死なのでしょうか。治療困難な状況に陥ってもなお延命治療を続けるべきものなのでしょうか。既に意識もなく、呼吸中枢も停止した患者さんに対して、人工呼吸器を装着し、点滴で栄養輸液を投与する、あるいは胃瘻チューブから流動食を時間毎に流し込む。結果として、意識もないまま、何ヶ月も、ときには何年も、屍の如く生き続けなければならない事態。

いったい誰がそんな状況の生き様を受け入れるというのでしょうか。こんな医療を果たして医療と呼んでよいものなのでしょうか。

呼吸停止状態を放置すれば、僅か数分で心臓死に至ることが大半です。まして癌末期ともなればなおさらです。こんな状態でもとりあえず人工呼吸器を装着すれば、確かに救命までは無理としても、一時的な延命は可能です。ですがそもそもそんな患者さんに人工呼吸器を巣着する意味があるのか否か。筍は末期がん患者に人工呼吸器など絶対に装着しません。人工呼吸器装着はあくまで救命の目的だけに限定すべきと考えるからです。

「安楽死」と「尊厳死」が混同されているように、「救命」と「延命」も医療現場において屢々混同され、それ故の喜・悲劇が再々です。

人工呼吸器を要するような末期がん患者の多くは、既に意識がないのだ通例です。その時点になって初めて本人の意思の確認などナンセンスです。それでは家族の同意があれば延命治療の中止は正当なものとなるのでしょうか。そもそも患者本人の人生を家族が決定づけてよいのでしょうか。どんな権利があるというのでしょうか。筍は家族の意思を確認したことなどありませんし、同意を得ようとしたこともありません。家族の意志は、時に本人の意思とは懸け離れている事例を多く経験したからです。

何れにしても、治療の継続や中断が司法の場で問われるというのであれば、医師として生き存える道はただ一つ、最初から治療しないということに尽きます。人工呼吸器など装着するからいけないのです。無駄な医療を提供して、独断でその治療を中止したとして弾劾されるなど、まさに愚の骨頂ではありませんか。

あの事件から既に10年近くの時が経過しております。果たして我々は、どう生き、どう死ぬかという人生の大命題に何らかの答えを出せているのでしょうか。

終末期医療には「人道的かつ合理的な医療」が求められるのです。

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