第百二十七話:『松根の松太郎 その弐』

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眼の見えんお千代は平気じゃった。身の丈六尺五寸、髭ぼうぼうで顔中毛むくじゃら、眼だけが爛々と光る松太郎の姿を見れんのじゃから。

「どうかきやってけれえ(許してやる)。こん(この)にんにこ(握り飯)やるけ、きやったって」

五平は震えながら腰に吊らくっとった二人分の昼飯を差し出した。

「おいはそがいなもん欲しゅうて声掛けたんじゃないけえ。此所の水飲みにきただけじゃで」

松太郎はおとろしがっとる五平を宥めるように五平の肩に手をおいた。

「ひやああっ,喰われるううっ」

五平は松太郎の手を振り払って飛び上がった。そのまま四つん這いで逃げ出した。

「とうしゃん、おっとう、あっしを独りで置いとかんといて。まってえ、待って」

でも五平はもう何がなんだか解らんようになっての、後ろも見んと逃げってってしもた。お千代は独り置いてきぼりじゃ。

「おいが悪いんじゃのう、かだらはおっきし、髪んぼさぼさ、髭もじゃもじゃやけえ、泣かんといてくろ。何も悪いことしやせんよって。泣かれたらおらも辛えで」

本当はの、松太郎は気だての優しい山男じゃったと。いっつも里の衆と仲良うにしたかったが、姿見るなりみんな逃げ出すで、辛かったんじゃ。世間の多くはの、外見だけで判断すっからの。見掛けで何でも思い込む。困ったもんじゃ。目の見えんお千代のほうがものの本質を見極める力持っとるで。こがいに優しげな声の松太郎はきっといい人じゃと、お千代はよう解っとった。

「松太郎のおいやん,皆が勝手におとろしがるんで寂しいね。帰ったらあっしがおいやんはいいひとだって皆に云うとくから。仲ようせんとあかんって怒っとくから」

「おおきによ,おまんは優しいのう。ところで今日は何処へ行くとこじゃったんな」

「熊野川の源庵せんせにあっしの眼え診てもらいにいくの。おとしゃんが眼え見えんお千代が可哀相でどもならんちゅうてね。あっしも治ったらどんだけ嬉しいことか。でもね,見えなくてもいいの。目は見えんけど心で感じるもん。見えんほうがええもんもきっと仰山あるよってに」

「そうやったんけえ、じゃあ、今からおらがおまんを熊野川まで連れてってやるで。こん肩に乗ってみれ」

そう云うと松太郎はお千代の前に跪いて、熊の毛皮に覆われた左肩を貸したげな。お千代はまるで眼え見えるよに軽々と松太郎の肩に乗った。

「うわあ,おいやんの肩の上は山のてっぺんみてえだ。風が気持ちええのう。こっからは牟婁の海が見えるん。海っておっきいんでしょ。綺麗なんでしょうねえ。いっぺんでええから見てえなあ」

松太郎の肩の上でお千代は飛び跳ねてはしゃいどった。そして南のほうに首を伸ばして、彼方の牟婁の海を見えぬ眼で眺めていたげな。松太郎はそんなお千代が不憫になっての、おっきな目に涙いっぺえ溜めながらこう云うたげな。

「牟呂の海はこっからじゃ見えんのじゃ。でもいつか、おらがお千代坊を海に連れてってやるで。そいまでの我慢じゃで」

ほんとはの、足郷峠からは牟呂の海がよう見えるんじゃと。陽光に煌めく黒潮が,緑の大島が、沖ゆく帆船が、まるで一幅の絵のようじゃったげな。

そん頃、松根の里では村じゅう大騒ぎじゃ。お千代が松太郎に攫われた、勾引されて喰われちまうと。

「五平もがいにしょね(性根)ちっせえやっちゃのう。お千代をほらくっといて(放り出して)、あがだけが逃げけえるなんてよ」

「ほんにほうらしない(格好悪い)こっちゃ。今でん家ん中で震うてひしっとる(泣き叫ぶ)げな」

「びゅうびゅうとっかん(大急ぎ)で松太郎おわえなあかん。ながたん(包丁)四.五丁ももいてけよう(持って行けよ)」

「てっぽも二、三丁担いでの、よけで(大勢で)狩りゃあ見つかるで」

「辺りがめえる(見える)うちに探すんじゃ。まっくらがりじゃどもならん」

「おまん、先にいかいしよ(行きなさい)。けつから(あとから)あがらがはおわえるで」

皆、しこったり(叫んだり),おしゃるく(歩き回る)だけじゃ。口では勇ましこと云うとるが,実んとこ松太郎が恐ろしゅうておとろして、だえろかろが(誰かが)行くじゃろとちっとも動かん。あがばっかりじゃ。

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