第百四十七話:『為し難きこと 病診連携 その弐』

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病診連携の深化を阻むいまひとつの要因、それは病院に勤務する医者と開業医の間に横たわる深い溝です。一言で云えば、勤務医は在宅のことを知らず、開業医は病院医療のことを知らぬのです。勤務医は、退院後、患者さんが如何なる生活環境におかれ、如何なる家族構成の元で療養を続けねばならぬのかについて無知です。

既に有効な治療もなく、治せる見込みが全く無くなった末期患者さんとその家族に、後ろめたさの故か、あろうことか、退院に際しての挨拶として、「治療はここで一旦終了しました。ここらで自宅療養としますか」などと、患者さんに退院を促す。

家族は事前の説明をうけ、「最早残された治療法はない、ここで自宅へ帰さぬと帰るタイミングを失する。残された時間は良くてあと数ヶ月です」、などとすでに引導を渡されている。

患者さんは入院治療をしていても思うように治療効果が捗らないことへの焦りと不安に苛まれ、家族は家族であまりにも切ない主治医からの最悪の予後見通し、こんな状況におかれては、患者さんもご家族も、主治医の退院勧告を拒否できる訳はないのです。

しかも退院が決定したとなれば、「何かお困りのことがあれば、できるだけのことはしますから、遠慮せずに云って下さいね」と、矢鱈滅多ら優しい言葉を掛けてくれる。とても親切な患者さん思いの主治医なのです。

でもさ、こんなこと云われようもんなら、在宅医療に携わる医者の立つ瀬がないのです。どれほど手厚いものであれ、在宅医療は患者さんとご家族しかいない時間が大半なのです。何か起こったときにはどうすればいいのだろう。私たちだけではどうしようもない。不安だ、こんな状態で家にいて大丈夫なのか。不安ばかりが先に立つのです。しかも心ない遠くの親戚からは、「お金を惜しんで病院にもかからせない」などの心ない非難、やりきれませんよね、まったく。

こんな時に弱気になったご家族は思い出すのです。

「何かお困りのことがあれば、できるだけのことはしますから、遠慮せずに云って下さいね」

こうして再入院となるのです。今度ご自宅に戻られるときは顔には白い布が被せられているのです。患者さんはさぞやご自宅で最後を迎えたかっただろうに。ありとあらゆる延命治療の結果、終には旅立たれる。閑かな死などとても望めぬのです。

病院医療と在宅医療では、同じ医療といえども本質において大きく食い違う、「以て非なるもの」という事実です。病院医療では、十分に食べられないとなればすぐさま点滴、痛みがあればすぐさま鎮痛剤、発熱すればすぐに解熱剤、解熱剤で乏尿となればすぐに利尿剤です。そして、死ぬ直前まで、放射線治療や抗癌剤治療を続ける。ともすれば「やり過ぎの医療」となることが多いのです。

これに対して、在宅医療では「何もしない医療」となります。勿論、ひたすら我慢させるだけの医療ではありません。が、根本的には「ただただ寄り添うだけの医療」なのです。食べられないときには、食べたいと思うものがあるのなら、ほんの少しでもいいから食べてもらう。お酒が呑みたければお酒も結構。尿が少ないからといって管など入れません。点滴も滅多にはしません。ただし除痛には最大限心掛けます。

残された僅かな時間を、その人らしく、ゆったりと過ごさせる。このことこそが在宅医療の真髄です。自らの死もこうありたいと想えるような死への寄り添い、それが死なせ上手を目指す筍医者の本望です。

在宅ホスピスケアでは患者さんの意識は亡くなられる直前までクリアなことが多いのです。しかもみずからの死期を悟られる方が大半です。人の死はまさにこうあるべきものだと、在宅医療に身をおくものとして、お見送りする度毎にしみじみと思うのです。

勤務医時代の筍はそのことには全く気づかされませんでした。完全な死に至るまでありとあらゆる延命に全力を尽くす。それが当然のことと考えておりました。でもいまは違います。閑かな死こそ理想です。自らの死を悟れないことの不幸さ、勤務医の方々にも是非気づいて欲しいものだとつくづく思います。

「為し難きこと 病診連携」

その深化を祈って止みません。

 

 

 

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