第二百三十一話:『そして長崎のあの日』

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1945年8月9日午前7時45分、テニアン島を飛び立ったB29編隊は、硫黄島上空を経て、合流地点である屋久島上空に到達した。グレート・アーチスト号とボックス・カー号の2機は計画通り合流したが、ビッグ・スウィンク号は合流し得なかった。2機のB29は、午前9時44分に大分県姫島方面から原子爆弾投下目標である小倉市陸軍造兵廠上空を目指した。

しかしながら、当日の小倉市上空は靄もしくは煙が立ち込め、目視による投下目標確認ができなかった。この時、地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が、B29の少数機編隊が豊後水道を北上中との報を聞き、新型爆弾投下を警戒して、「コールタールを燃やして煙幕を張った」との証言がある。

小倉上空に到達したプルトニウム型原子爆弾(広島に投下された原子爆弾リトルボーイはウラン型)を搭載したB29:ボックス・カー号は、その後三度にわたって爆撃航程の繰り返しを試みたが、ついに失敗。この段階で約45分が経過し、ボックス・カー号の残燃料が少なくなった。さらにこの作戦中、燃料系統の異常が発生し、予備燃料に切り替えざるを得なくなり、作戦遂行後のテニアン島への帰還は困難となった。

そうこうするうちに天候が悪化、さらに日本軍高射砲からの対空砲火が激しくなり、陸軍芦屋飛行場からの五式戦闘機、海軍築城基地からの零式艦上戦闘機の緊急発進などもあり、急遽目標が長崎へと変更され、2機のB29は午前10時30分頃、小倉上空を離脱した。

長崎はその日、朝から空襲警報が発令されており、午前10時過ぎに警報解除となったため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊は軍需工場の作業に戻っていた。

当時の長崎市長は、前夜、警察署長や警察部課長を官舎に召集し、広島に落とされた新型爆弾が長崎にも落とされる恐れがあるとして、翌9日に全市民に対して避難命令を出すことに決定した。

長崎県知事は、当日自ら長崎市立山の県防空本部に駆けつけ、警察幹部との会議を始めた。また同盟通信社長崎支局では、当日午前11時に県の防空課長から新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいとの召集があった。

原爆投下直前、ラジオから「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが、福岡、熊本、佐賀3県に流された。しかしながら、「総退避」を呼びかけるラジオの呼びかけは、瞬時ののちに止むこととなった。

ファットマンを搭載したB29:ボックス・カー号は、長崎に向かう途中、再度重大なトラブルを抱えた。幾つかのミスも重なり、結果的には二機のB29同士がニアミスを起こし、あわや空中衝突するところであったという。それでも、ボックス・カー号は小倉離脱後約20分にして長崎上空に到達した。その時点では長崎上空は厚い雲に覆われ目視不可能な状態であった。

本来は目視爆撃が不可能な場合には原子爆弾を太平洋に投下したのちに帰還する手筈となっていたが、兵器担当中佐の決断によりレーダー爆撃に切り替えることとなった。そして、命令違反のレーダー爆撃を行おうとしたまさにその瞬間、投下目標地点よりやや外れたところではあったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街地が覗いた。

1945年8月9日午前11時02分、ついにその時間となった。長崎市中心部より北へ約3km、浦上地区上空約500mで人類史上二発目の原子爆弾:ファットマンが炸裂した。威力は広島型原子爆弾の約1.5倍、TNT火薬に換算して22キロトン規模であった。

当時の長崎市の人口は約24万人。原爆投下目標である長崎中心地より北へ3km離れた地点への投下だった。それでも、たった一発の原子爆弾で74,000人の命と生活が一瞬のうちに絶たれた。

戦争の勝者による大量虐殺は屁理屈をつけてでも正当化されるが、敗者による行為はあったこともなかったことも、戦後70年が経過してもなお糾弾される理不尽さ。醜いプロパガンダが相も変わらず繰り返されている。

戦争はあってはならない。しかし忌避するだけでは戦争は防げない。

依存することだけに長けた日本人よ、目覚めよ。

それぞれの叡智を絞れ!

果たして戦後70年の敗戦記念日に発表される予定の総理談話が、いったい如何なるものとなるか。

この国はいったい何処へ向かおうとしているのか?

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