第百二十六話:『松根の松太郎 その壱』

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花梨の蕾

花梨の蕾

 

どれほど昔のことじゃったか、今ではもう定かではないがの。  木の國大塔山の山中深くに、「松根の松太郎」っちゅう山男が棲んどったげな。

松太郎は身の丈六尺五寸、髭ぼうぼうで顔中毛むくじゃら、眼だけが爛々と光ってのう、山の麓の里からでもその眼光が見えるほどじゃったげな。真っ黒な熊の毛皮を左肩から被り、腰には大人の腕ほどもある蔦を三重に巻き、三尺余りの山刀を差し込んでおったと。

そんなおっとろしい風貌故か、里の衆は松太郎の姿をちっとでも見ると飛び上がって逃げ帰ったんじゃと。見てから逃げるんはまだましじゃ、臆病もんは枯れ枝がポキッと鳴っても飛び上がる。ちっちろこ(松ぼっくり)が枝からポトンと落ちても腰抜かす。落ち葉がカサッとなっても震え出す。もう山仕事もできんで山はだんだんと草むいて荒んできたんじゃと。

麓の悪戯もんの洟垂れわっぱどもものう、なんぞ悪さするたびに親からこう云われたんだと。

「こんな悪がきゃあ松太郎にやってこますぞ。てきゃ(あいつ)のう、子供好きじゃあ。一欠片の骨も残さんと喜んでみんな喰っちまうげなでの。今から山へ捨てにいくか」

「そんなてったい(手伝い)もせんやちゃ、松太郎に連れてってもらうで。火に炙られて喰われちまえ」

こう云われた子供らは一人残らず震え上がってしもてのう、悪さもすぐに辞めたげな。てったいもようしたげな。洟垂れわっぱどもは松太郎がおとろして、だあれも大塔山には寄り付かんかったんじゃ。

ある日のこと、大塔山に向かう山道に珍しく人影があったげな。松根の五平と娘のお千代じゃった。足郷峠を越えて熊野川に向かおうとしておったんじゃ。お千代はのう、生まれつき眼が不自由での、熊野川の源庵ちゅう医者に診せにいくとこじゃったげな。

松太郎はおとろしが、かいらし(可愛い)娘のためじゃ、なんとか松太郎と出くわさんよう祈りながら、五平は山を登っていったんじゃ。眼の悪いお千代の手を引いての、疲れたと見りゃせたろう(おんぶする)て、一歩一歩昇っていったんじゃと。

ちょうど足郷峠に差し掛かったところで一休みじゃあ。ここには舌が震えるほど旨うてならん清水があるんじゃ。五平はそん湧き水を竹筒に汲んでやり、あがは煙管に煙草を詰めてプカリと一服、また一服プカリと吸うたんじゃ。お千代はよっぽど喉乾いたんじゃろ、ごくごく、ごくごく水飲んどった。

ここまでん道程は大人でもえらい昇り道じゃもの。疲れてもおったじゃろう。あたりは一面の熊笹原、小鳥たちのさえずりが賑やかでのう、空は抜けるように晴れ上がり、鳶が一羽ピイヒョロロロウと啼きながら、ゆったりと大けな円を描いとったんじゃ。

「さて、ぼちぼち行くとするかの、後は下りじゃ、せわないで。そがいにえろうはないでのう」

「うん、あっし(私;女性言葉)は大丈夫。でももういっぺん水汲んでやって」

「こん水はやにこう(とても)美味いやろ。ここいら一番の湧き水じゃ。ようけ飲んどけや」

腰を上げたそん時じゃった。向こうの熊笹がガサがサッと揺れたげな。そのまま熊笹をざわめかせてこちらに何かがやってくる。三間ほど向こうの熊笹原からいきのせ(いきなり)ぬっと顔出したんは髭もじゃの大男。右の肩には三十貫もありそな大猪を担いどる。

「ま、ま、ま、まっ、まっ、まつ、まつ、まっつ、まったろう」

五平はひしり(叫ぶ)ながら腰抜かしてへたり込んだ。

「こがいなとこでなにしよるんな」 松太郎は顔に似合わん優しげな声で尋ねたげな。

「おいやん、皆がおとろしがっとる松太郎なん。優しげな声じゃもん、違うよね」

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