第百二十八話:『松根の松太郎 その参』

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花梨の花

「どれどれちっと眼え開けて、儂の指を追いかけるんじゃ。よしよし、こいでお仕舞いじゃ。あとはの、この眼薬を毎朝毎晩注すんじゃぞ。忘れちゃあかんぞ。だんだん見えるようになるでの。心配せんでええ。きっと治るでの」

熊野川の源庵せんせの診療所じゃ。顎髭撫でながら源庵せんせが太鼓判。松太郎はもう嬉しゅうて嬉しゅうて、右肩に担いできた今朝方獲ったばかりの大猪をドサッと診察の御礼に差し出したげな。

「おうおう,こがいなおおもん(大物)見たことないのう。何とも立派な獅子じゃのう。今夜はこいで獅子鍋じゃのう」

待ち合いの他の患者や家族は先刻から松太郎の方を見ることもでけんと一塊になって、部屋の隅に震えもってつくもっとった(小さくなって蹲る)げな。松太郎を鬼か魔物か獣の頭かと思うての。

おぼこいお千代はそんな周りの人たちのことを気にするでも無く、松太郎の膝の上でピョンピョン飛び跳ねながらこう云うたげな。

「松太郎のおいやん,千代の眼見えるようになるん。本当に見えるようになるん。本当に海に連れてってくれるん。どがいなもんじゃろ、海って。広いんけ、おっきいんけ、早よ見たいなあ。はよ行きてえなあ」

松太郎は爛々と光る両の眼を細め、毛むくじゃらの太い右腕で優しゅうにお千代の頭を撫でながらこう答えたげな。

「お千代坊、今頃は里の衆も心配しとるじゃろ。早よ帰って皆を喜ばしちゃらな。おまんのおっとうもおっかあもどんだけ喜ぶことかのう。眼え見えるようになるっちゅうて、いうたらなあかん。がいに嬉しいこっちゃのう」

こうして松太郎はいきしなとおんなじようにお千代をてんぐるまして帰ったげな。その足の疾いこと、あっちゅう間に小口を通り抜け,足郷峠、大塔橋、大河を越えて、もうあと一山廻ったところは松根の集落じゃ。里の衆に見られるとまた大騒ぎになるじゃろうと,松太郎はお千代を肩から降ろしこう云うた。

「お千代坊、早よ眼え治して何でもようめえるようなったら,またあの足郷峠にきちゃって。そこでおらの名を呼んでくれれば、なんしとっても直ぐに駆けつけるで。お千代坊との今日一日はおらにとってはがいにここらええ(気持ちのよい)もんじゃった。おおきによ」

「松太郎のおいやん,今日はずっとこせあっしをつらるいて(連れ歩いて)しんどかったろ、ごいさらませ(お許し下さい)。おいやん、せっかく此処まで来たのに帰らんといて、ごっちょ(ご馳走)はないけどよばれてって。おとしゃんもおかしゃんもきっと喜んでくれるで。あっしとつれもっていこら(一緒に行きましょう)」

お千代は松太郎の太い毛むくじゃらな腕を掴んで里の方へとむりやくたいに(無理矢理)引っ張って行ったげな。松太郎はかいらしお千代のやらかい(柔らかい)両の掌に包まれた腕がなにやらチリチリ,ピリピリしての、かだらじゅうが熱持ったようになって、何やここらええよな、ずつない(苦しい)ような妙な気分でのう、連れもってゆっくりと里に近づいて行ったんじゃと。二人はのう、大男が子供を捉まえとるんか、子供が大男を引いとるんか、よう解らんよなふうじゃったげな。

いっとう上手の由蔵んちが見えてきた。もう夕餉の支度なんじゃろか、藁葺き屋根からは白い煙りが一本、真っ直ぐに山のてっぺんに向かって昇っておった。大師山の山の端にもう陽が隠れようという頃じゃった。村はずれの大きな栃の木の団扇のような大きな葉が残り僅かな陽の光を受けてピカピカと光っとったげな。

そんときじゃ。 「ダアーン」 耳を劈くような大きな銃声が一発。

お千代が吃驚して松太郎を見た。松太郎の胸からは真っ赤な血が噴き出しておった。美しい血潮じゃった。やぶうつぎの花よりももっともっと赤い色じゃった。

一体何が起こったのか、松太郎にもお千代にもよう解らんかったようじゃ。松太郎は静かな深い表情をしておった。ゆっくりとあがの胸に手をやって,傷口にあてたその手を訝しげに目の前に持ってきた。血だらけになったあがの右手を暫く眺めておったが、やがてお千代のほうに顔を向け、優しい眼差しでお千代を見詰めた。そしてそのまま仰向けにドーオッと倒れたんじゃ。

「松太郎のおいやん,死んじゃ嫌だ。千代を海に連れてくって約束したじゃねえか。おいやん、おいやん、おいやん。眼え開けて,千代を見て。千代もおいやんの顔めえるようになるから。優しいおいやん、松太郎のおいやん、もういっぺんお千代をてんぐるましちゃって、山のてっぺんみてえな肩の上から海が見てえの、そう云うたでしょ。おいやん,松太郎のおいやあーん」

いつまでもいつまでも松太郎に取り縋って泣く千代の声が山々に響いておった。

いちびり(お調子もん)で、いもえそ(気の小さいひとの蔑称)で、うとさく(大馬鹿もん)の猟師の由蔵が鉄砲を撃ったんじゃ。村へと続く一本道を見下ろす崖の上の檜の大木に登ってな、鉄砲抱えて枝の陰に隠れて待っておったんじゃと。山におわえる肝っ玉もねえ臆病もんじゃから・・・。

これでお仕舞いじゃ。

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