第四十九話: 『セクハラの艶乃』

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艶乃婆さんは御年82歳、元気もんです。若い頃、旅館の仲居で鳴らしただけに、今もその名の如く仕草がどことなく艶っぽい。もう30年も前に卵巣癌を患いました。卵巣癌手術とそのあとの放射線治療のために膀胱機能が障害されたのです。尿意が全く感じられないのです。このため、数時間毎に自己導尿をしなければなりません。でもめげてはおりません。独り住まいに飽きれば、ふらっと居なくなります。都会に住む子供たちの家を訪れるのです。そのまま一ヶ月も居続けたり、時には一週間もせぬうちにまた戻って参ります。気侭なもんです。

艶乃婆さんが都会の子供たちの元に居るとき筍は幸せです。気分もゆったり、のんびり、恙無し。ですが、婆さんのカルテが診察室の机に並ぶやいなや、もういけません。気も漫ろ、手はわなわなと震え字も書けず、足は貧乏揺すりが止まらず、机ががたがた鳴るほどです。

「なんやもう帰ったんかいな。もちっと向こうに居ればいいものを」

なんて心の中で叫ぶのです。でもいくら叫んでも仕方ない。

患者は医者を選べるけれど、医者は患者を選べねえ。

「なぜそれほど嫌う」ですって?

それはセクハラ。艶乃婆さんはセクハラの名人、達人、大天才。診察を受けながら、筍の腕やら大腿やら背中やら、滅多矢鱈と触るのです。撫で回すのです。その絶妙さといったら。いや身構えてはいるのですよ、毎回、毎回。そりゃあもう、じぶんでいうのもなんですがね、涙ぐましい努力なんです。ところがどっこい、旨いんですな、その間合い、その呼吸。逃げられんのです、婆さんの魔の手から。

「せんせっ、昨日はわたし血圧がちょっと高うてね。なにか胸のこの辺りがもやもやしてね」

婆さん、萎びたおっぱい辺りを両の手で押さえております。筍がその胸の辺りに気を取られた一瞬、すっと太腿に手が伸び、触る、撫でる、擦られる。

「せんせっ、わたしの心臓、大丈夫?変な音してない?」

聴診器をあてたその瞬間、すっと腕が廻される。背中を擦られ、腰を撫で回される。身を捩って逃げるのです、おぞましい婆さんの触手から。

「せんせっ、聴いてくれますう。わたしゃ亭主にそりゃあ苦労かけられっぱなしでねえ。毎日、毎日、涙、涙で暮らしてよう。やっとのことで子供を育ててねえ、何とか亭主が死んでやれやれこれでと思った矢先、今度は卵巣癌でしょ、おまけに膀胱までやっつけられてちゃってねえ。わたしゃいったい前世でどんな悪いことしたんだろ。何の因果でこんな目に遭うんだろ。ねえ、せんせっ!」

八十超えてこんなに元気で、行きたいとこにゃ、いつでも何処へでも行ける。子供らも喜んであんたを迎えてくれるんだろ?幸せもんだよ、あんたは。文句を言ってちゃ罰が当たるよ。

「でもねえ、せんせっ。わたしゃ辛いんよお。身体は衰えるし、気も弱る。せんせはまだ若いからこんなこと判らんだろうねえ。夜中目が覚めるとねえ、なんや心細うてねえ、涙がでるんよう。もう死んじゃいたいよう」

死ぬときは死ぬんだからね。不公平ないよ、みんな死ぬんだからね。艶乃さん、生きてるうちは生き抜かんと仕方ないよね。そのうち嫌でも死ななきゃならないんだからさ。もっともっと生きたいと願ってても、若くして死んでいかにゃならんおひとも居るんだよ。生きれるうちは生きる。辛いことがあったって、いつも誰かのお役に立てるよう頑張ってさ、いよいよ逝くときには閑かに逝く。これで良いんじゃないかい。これが人生なんだよね。

「せんせがおってくれてほんとによかったよう。こんな年寄りの愚痴なんか聞いてくれんもんなあ、みんなはさあ」

ひとしきり嘆いたあと婆さんはご機嫌です。筍は疲れ果ててしまいます。どこかに触れられる度に精気が抜かれるようで・・・。診察を待っているひとたちもまだ多いというのにねえ。

長生きするんやろねえ、婆さん。

4 thoughts on “第四十九話: 『セクハラの艶乃』

  • ご活発なセクハラ?は信頼関係があるからこそなんでしょうね。
    羨ましい限りです。

    ところで、「人間誰でもいつかは死を迎える」
    これは当然と理解出来ます。

    でも生と死について考えれば考えるほど、正直苦しくなります。
    目を背けたくなります。
    友人たちや仕事で関わらせて頂いた方々の死が、いつまでも追いかけて来る感じすらします。
    勿論、忘れてはならない死であろうとも思いますが、「生と死」の考え方がわかりません。

    何のための「生」なんでしょうか。
    何のための「死」なんでしょうか。

    • 何処かの下っ端さん
      何のための「生」なんでしょうか。
      何のための「死」なんでしょうか。

       どう生きるべきかを常に考え続けることこそが、どう死ぬかを考えることですよね。ひとの為に少しでも役立つよう生きる。それが生き甲斐に繋がるのではないでしょうか。我利我欲では死の恐怖から逃げることなどできませんよね。。私はそう考えておりますが・・・。

        • 何処かの下っ端さん
           ボランティアの真髄を考えれば良いのではないでしょうかね。誰かの為にボランティアをするんじゃない、みんな自分の喜びのため。周りの人たちへの助けになること、邪魔にならぬように生きること、これが生きることの意味では?答えになってますかなあ・・・。

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