第五十七話:『わが父のこと その一』

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 医学部の卒業式と謝恩会には珍しく父が出席すると連絡がありました。およそ子供の就学や進路について一言も意見を言わぬ父に、いったいどのような心境の変化があったものか。当時の私はかなり訝しくも感じ、少々面倒なことになったと身構えるような気分でありました。当日は大学の正門前の喫茶店を待ち合わせの場所にする旨、父に伝えておきました。ところが約束の時間間近に現れた父の様子がいつになくぎごちないのです。他愛のない話をしていても、どうもいつもと違い上の空です。

「なにかあったの?」

と訊ねても

「いいや別に」

とだけ答え、他に捗々しい返事もしてくれません。

 父に会場まで付き添い父兄席へと案内したあと、私は卒業生の席へと向かいました。卒業証書の授与、学長の祝辞、首席卒業性の挨拶、父兄代表の祝辞へと型通りに式は進んでいきます。私はただただ退屈なだけで、格別の感慨もありませんでした。近々迫った医師国家試験のほうがよほど気になっておりました。式は滞りなく終了しました。引き続いて挙行される懇親会会場へと向かう道すがら、父が小走りに駆け寄ってきてこう云うのです。

「どうだ、晴れて医学士になった気分は?」

「何も格別な想いはないよ。それよりも国家試験に通らねばただの若僧だからね。医師免の無い医学士なんて、さまにならんもの」

と木で鼻をくくったような返事を返したのです。父はただ黙って下を向いて歩いていました。

 謝恩会の会場に到着しました。大学の軽音楽部が賑やかに生演奏を続けるなか、漸く卒業式の固い雰囲気も融け去り、華やいだ空気になって参りました。国家試験終了後に入局予定の外科学講座の主任教授に挨拶をしておかねばと会場内を探しました。ほどなく会場中程のテーブルわきで入局予定の同級生四、五名に囲まれて、にこやかに談笑する主任教授を見つけました。手には水割りのグラスをお持ちです。

「居られた、居られた。あそこの長身白髪の爺さんが外科の教授だよ。ちょっと親父にも挨拶しておいてもらおうかな。紹介するよ」

 父はもう舞い上がって、それこそ“コチコチのガチガチ”でした。あんなに緊張した父の姿は初めて見ました。田舎議員をもう何期もこなした父のこと、この程度の宴会なんぞ大して緊張も興奮もしないだろうし、挨拶なんて馴れたもんだろうと想ったのは私の大間違いでした。教授の元へと歩み寄る父の手と足が揃ってるじゃありませんか。まるで繰り人形の如き歩きっぷり、ちょっと背中を突っつけば、すぐに前のめりに倒れちまいそうな案配です。

「教授、私の父親です。宜しくお願いします」

私が子供を紹介するが如き始末です。そのとき父が教授に何と挨拶したのか、不思議なことに全く記憶に残っていません。覚えられるような、大したことは云えなかったんでしょうね、きっと。

 事件が起こったのはその後でした。


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