第五十九話:『わが父のこと その三』

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 久しぶりに煌めくような朝の光の中に出ました。最寄りの私鉄の駅に向かう住宅街の小道の両側に植えられた桜の古木が満開の時を迎えて居りました。よはすっかり春爛漫の装いでした。医師国家試験初日の朝のことです。数ヶ月間は夕刊の配達が目覚まし代わり、朝刊を読んでから寝るという毎日を過ごして居りました。冬眠から醒めた蛙の気分もさぞやと想われます。二日間の試験が終了すれば、待ちに待った長期休暇が取れます。試験に対する緊張感より、むしろこれからの自由な時間と、己が好きな学問だけに打ち込める喜び、そんな期待だけが胸に膨らむやけに高揚した気分でした。

 二日間の試験は無事に終了しました。先ず間違いなく合格できる成績であるとの自信も得られました。久しぶりの実家でした。父も母も相変わらず慌ただしく動いておりました。惰眠を貪る筍が漸く目覚めたのはもう昼近くのこと、丁度父が帰って参りました。

「最近余り調子がよくなくてな。夕方になると微熱が出て、妙に気怠いんだよ」

父が訴えます。

「何処かで診てもらっているの?」

妙に胸がざわついたのを覚えて居ります。

「近所の大藪医院で診てもらったけど、ちょっと疲れが出たんだろうということでね。ちょっと安心はしたのだけれどね」

「いつから熱出てるの?」

不安でした。

「丁度お前の卒業式から帰ってすぐだよ。ちょっと歩き過ぎたんで疲れでも出たんだろう」

本人はさほど深刻ではありませんでした、あの頃は・・・。

「でも一度しっかり検査したほうがいいと思うよ。市民病院には大学から内科の先生が診察に来ているはずだから、そこで診てもらっておいたほうがいいと思うよ」

 外科学講座に入局する日が迫って居りました。気がかりではありましたが、こんなに簡単に日常が崩れるなんて夢にも思いませんでした、あの頃はまだ・・・。

 入局の日が近づいて居りましたので大阪に戻りました。新入医局員の生活はそれはそれは忙しいものでした。週に一晩か二晩でした、家に帰られるのは。でも充実した毎日でした。だって自分が興味を持った文献だけを読んでいれば良いのです。毎年、毎年、同じ冗談を臆面も無く繰り返す、怠惰そのものとしか云いようのない教授のつまらぬ講義も、もう聴かなくともよいのですから。自らが著した書物だけを学生に強要して、その本を読まねば九割以上の学生が試験に落ちるなどと云った馬鹿馬鹿しい試験ももうないのです。そんな些細なことが嬉しかったのです。毎日の居場所は病棟と図書館と医局、その三カ所だけでした。身の回りに起こる全てのことが医者としての血となり肉となってゆく実感がありました。努力した全てが自分の財産として蓄積されるのです。もう無我夢中でした。寝食を忘れるというのは本当にあの頃のことだと今でも確信が持てます。

「人生という舞台は一瞬にして暗転することもある。一日一日を人生最後の日として生きること。毎日毎日を永遠の中にいるつもりで生きること」

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