第六十話:『わが父のこと その四』

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ですが、たった一本の電話がそんな日常を一変させたのです。大学の血液内科の医師からでした。

「一度早急にお会いしたい。お父上のことで相談したい」

翌日、大学の研究室を訪ねました。そこで告げられた病名は白血病でした。予後としては良くて一年、多くは半年は保たないと説明されました。とりあえず父に入院の必要があることだけは伝えました。血液疾患であること、予断は許されない病状であること、正式な病名は精密検査をしないと断定できないなどと嘘をつきました。

当時、父は市会議員でした。次の市議会で議長に選出されることが内定しておりました。仕事上も絶頂期にあったと云えます。随分気落ちしただろうと思います。入院して三ヶ月が経った頃でした。病状は次第に篤くなっておりました。

「市議会に辞職願いを出したほうがいいかどうか迷ってるんだが、おまえはどう思う」

病名は骨髄繊維症であること、治療にはだいぶ時間がかかりそうだから市議会議員の職務は暫く休職せざるを得ないだろうことなどを伝えました。父は黙って聴いておりました。筍が帰った後、付き添いの母に父が漏らしたそうです。

「あいつは医者としてはまだまだ修行しなければいかんな。まあ未だ入局して半年も経たんのだから仕方はないけどね」

ある晩のことでした。連日の付き添いに疲れた母がつい寝こけた夜半、父が寝ているはずのベッドが蛻けの殻。あの頃、既に自力ではなかなか車椅子にも移乗出来ぬ程弱っていた父がいなくなったのです。慌てたようです、母も。すぐに当直の看護婦さん方と病院中を探し回ったそうです。父は最上階の病棟の吹き抜けになったロビーの階段の踊り場付近にひっそりと佇んでいたそうです。 「あそこから飛び込んでもなかなか死ねやしないだろうね」 母にぽつんとこぼしたそうです。

それでも何とか発病以来二度目の春を迎えることができました。病状は一進一退を繰り返しておりました。暗い日々が続く中で、父にとりましても家族にとりましても嬉しいことがひとつありました。初孫誕生の知らせです。病室にいた筍に看護婦詰め所から電話の呼び出しがありました。長女誕生の知らせでした。病室に戻り父に報告しました。

「あかん、女の子だったわ」

父が慰めてくれました。

「元気な子であれば女でも男でも良いんだよ」

筍としては親父に男の子を抱かせてやりたかったのです。男児誕生を心待ちにする父の期待に気付いていたからです。人生なかなか思うようにはならぬものです。

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