第六十一話:『わが父のこと その五』

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それから一ヶ月後、お宮参りの帰りに父を見舞いました。父のベッドに長女を寝かせ初の顔合わせです。嬉しそうでした。閑かな眼で初孫をじっと見詰めて居りました。自らの命の短さにはとっくに気付いているようでした。優しくそっと長女のほほを指でなぞっておりました。生と死を諦観した顔でした。

さらに三ヶ月後、父危篤の報せが届きました。取り急ぎ父の元へと急いだ筍が病室に駆け込んで目にしたものは、気管内挿管(人工呼吸のためのチューブ挿入)をされつつある父の変わり果てた姿でした。当直の医師なので消化、主治医とは違う医師が二人で父のベッドを取り囲んでおりました。看護婦さん方も三人ほど居られましたでしょうか。ご家族の方々は廊下でお待ち下さいという看護婦さんの申し出を断り、母と共に部屋の隅で行われつつある気管内挿管の操作をひたすら見詰めておりました。

ところがなかなか挿管できないのです。もう10分も経っております。脳は既に低酸素血症で不可逆性の損傷を受けていることでしょう。何度も何度も父の喉に差し込まれた気管内チューブは既に血だらけとなっております。やっている医師の焦りに、同情と憤懣が綯い交ぜとなったような妙な感覚を覚えました。これ以上、彼らの拙い手技を正視することには耐えきれませんでした。母が私のほうを見て縋るような口調で訊ねるのです。

「お前代わってあげることは出来ないの」

母も辛かったのでしょう。

「先生、誠に失礼ではありますが、宜しければ私にチャレンジさせて頂けませんか」

すぐに許して下さいました。

お二人の先生はただじっと筍の手元を見ておられたように思います。幸いにして一回で挿管できました。でも挿管操作の際に見た父の咽頭から喉頭は出血斑や粘膜下血腫が一面に拡がっておりました。それほどに酷い出血傾向に陥っていたのです。その状景を見て初めてこれはもう駄目だなと実感できました。人工呼吸器に繋がれた父は規則正しい呼吸を続けております。もう昏睡状態です。意識の欠片さえ残ってはいなかったでしょう。医師や看護婦さん達が立ち去った後の病室は、ただ人工呼吸器のポンプの音だけが響いておりました。父と母と私の三人きりでした。数時間が経った頃だったでしょうか。

母が重い口を開きました。

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