第七十一話:『浅市のとっつぁん その二』

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  すきま風が吹き込む襤褸アパートの一部屋の、薄汚れた煎餅布団に包まって、いったい幾日が過ぎたことでしょう。今が昼なのか夜なのかさえ定かでなく、饐えた臭いの籠ったこの部屋で、誰にも気付かれずに死んでゆくのも悪くはなかろうと、浅市はもう諦めて居りました。数日来、食べ物は底をつき、水を飲むのも億劫で、何も口にはしていない。もう少しで死ねるのだ。あと少しで楽になる。

  そう思っていた矢先の或る日、ホトホトと遠慮がちに戸を叩くものがおります。もう浅市には起き上がる力はありませんでした。それでも何とか声が出たのでしょうか、おずおず戸が開かれました。戸の陰から覗いた顔が三つ、一つは少し窶れ加減の化粧っ気のない若い女。その顔の下には、二つの小さな頭、いがぐり頭とおかっぱ頭。

「お加減が悪いのですか。こんなもので宜しければ食べて下さいな」

 上がりかまちにお盆を置いて、女はまだ居りたそうな気配の、いがぐり頭とおかっぱ頭の手を引いて、すぐに戻っていきました。粗末な盆の上には、どんぶり一杯の茶粥、そして干涸びた梅干しと黄色いおこうこ三切れ。汗臭い澱んだ空気の部屋に香ばしいお茶の香りが立ち籠めました。

 浅市は、恐る恐る一口、粥を啜ります。さらに二口、三口。どれほど美味しかったことでしょう。食べるにつれ力が漲ってくるようでした。食べるにつれ涙が溢れました。彼にとっては懐かしい母の味、捨て去ったつもりの故郷の味でした。山肌に張り付くように立てられた陋屋の、庭の片方に植えられた茶の木。八十八夜の頃ともなれば、朝から晩までお袋が、摘んで、煎って、揉んで、干して、そうした丹精の末の焙じ茶の味そのものだったのです。

 その日から毎日毎日、どんぶり一杯の茶粥が届けられました。いがぐり頭のけんちゃんとおかっぱ頭のみいちゃんが、喜び勇んで粗末な食事が盛りつけられた小さなお盆を運んでくれたのです。

「おっちゃん、これ食べてって、かあちゃんが」

「おいやん、どうして一人ぼっちなの。家族はいないの」

「おっちゃんはお酒呑んでも怒らないよね。優しそうだもんね。僕のとうちゃん、お酒呑むととても怖かったんだよ。かあちゃんやぼくたちを殴るしさ」

「おいやん、ひとりぼっちで寂しくないの。みいは独りになると泣けちゃうよ」

 子供達の天真爛漫な笑顔が浅市を立ち上がらせました。数日をせぬ間に元気を取り戻しました。そして、いつとはなしにその親子と一つ灯りの下で暮らすようになりました。呑んだくれの亭主から命からがら逃げ出して、吹き溜まりのような都会の隅っこで、息を潜めて暮らしていた親子だったのです。浅市の心に俄然張り合いが出て来ました。故郷を出てから五年にして、初めて夢らしい夢が出来たのです。ひょんなことから手に入れた大事な家族を守ること、親子四人で慎ましくも幸せな家庭を作ること、夢中で働きました。どれほど疲れ果てていようと、家路につけば部屋には灯りが点いているのです。窓には浅市の帰りを待つ小さな人影がよぎるのです。


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