第七十二話:『浅市のとっつぁん その三』

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 歳月はあっという間に過ぎ去ってゆきます。ですが何年経っても生活は楽にはなりませんでした。みいちゃんはお隣のまこちゃんとおままごと遊び。けんちゃんは近所の餓鬼大将らと兵隊さんごっこ。かあちゃんは近所の食堂の洗い場仕事。とっつぁんは相変わらずの日雇い人夫。親子四人が食べていくのがやっとの、貧しく、倹しい生活が続きました。食卓には決まって茶粥です。子供達には評判の悪い茶粥でした。でも夫婦二人にとっては懐かしき故郷の味、忘れられぬ母の味でした。

  かあちゃんが躊躇いながらも、とっつぁんに語ったところでは、育った場所はとっつぁんの部落から遠からぬ海沿いの寒村、同い年の威勢だけが良い青年と向こう見ずな少女の二人が都会に憧れ、駆け落ちをしたその結末が、あのアパートだったのです。酒乱の亭主から親子三人逃げて隠れた避難場所が、あのアパートだったのです。

  子供達がもう煎餅布団の上で寝息を立てる或る晩秋の宵のこと。

「こんなお金に振り回されるばっかりの都会の生活には、もう見切りを付けたほうがよかろうなあ。俺たちがどれほど身を粉にして働いたって、大して稼げる訳ではねえ。子供達もこんな住処じゃ、可哀想だよ。よかねえ影響も出るだろうしのう。田舎に帰って百姓でもと思うんだが、おめえはどうだ。おらについてきてくれんかのう」

浅市は女房にこう切り出しました。

「私は故郷を捨てて駆け落ちをした女だもん、今更、あの村にゃよう帰らん。けどわたしゃ、町にもむいとらん。このことだけはよう判った。あんたが帰るとこあるんだったら、わたしゃあんたについてくで。百姓だってなんだって、やってやれんことなかろうもん」

  こうしてとっつぁんはかあちゃんと子供二人を引き連れて、また懐かしい故郷の山奥へと戻ったのです。親はもう何年も前に死んでしまって居りませんでした。帰って来た浅市親子の噂で、山里はほんの一時賑やかになりました。浅市のとっつぁんとかあちゃんは隣近所の好奇の眼や「親のめんども看んと・・・」という非難などには気も留めず、朝から晩まで働き詰めに働きました。浅市にとっては家族四人の慎ましい生活だけで十分でした。近所付き合いなど思いもよらぬこと、たとえどんなに悪し様に云われていようが、何の関心もなかったのです。村八分のような生活ではありました。

 相変わらず生活は楽ではありませんでした。ですが田舎では生きるだけは生きられるのです。麗しく優しい自然が助けてくれるのです。春ともなれば、山では蕗の薹やら蕨や薇、川に下りれば天魚や鮠や石斑魚が釣れ、夏ともなれば鮎や鰻や藻屑蟹、秋には松茸、山女に栗や柿、冬には山に分け入って鹿や猪を追い求め、あとはひっそり春を待つ。

 何年かは平穏な日々が続きました。ゆったりとした時間が流れてゆきました。子供達もいつの間にか成長して、いまではとっつぁんよりも背が高くなりました。けんちゃんは声変わりし鬚も濃く逞しい青年になりました。みいちゃんはぽっちゃりとした赤いほっぺの可愛らしい娘になりました。

「あの頃がいちばん幸せだった。かかあも元気だったしのう、子供らが夜なべ仕事する儂ら夫婦の周りを走ったり戯れ付いて来たりしてのう。それだけで良かったんじゃ。他に欲しいものなんぞなぁんもなかった。良かったんじゃあ、あの頃はのう」

 診察室の椅子に座り、浅市のとっつぁんは伏し目がちに良くこう呟いて居りました。ですが人生はいつも多くが苦いもの、突然の暗転が待っている。

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