第八十一話:『矍鑠たれ、お滝さん その一』

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お滝さんは今年八十路、いまだ矍鑠たる婆さんです。時々、診療所を訪ねてくれます。

「どうした。どっか具合でも悪いんかい」

診察室の椅子にちょこんと座ってニコニコしてます。

「いえね、せんせ、今朝、集会所の前を通ったら、おおぜのひとが集まっとるもんだから訊いてみたんだよ。なんかあるんか、あんたらどっかいくんかって。そしたらみんなが診療所へ行くって云うもんだからな。付いて来た」

いつもこうなんです。別に病気じゃないのです。気が向くと来てくれます。

「何か薬でも欲しいの」

「いやあ、どっこも悪うはないんよ。せんせにでも掛かっとけばな、診てもらわんよりはましだろとおもうてな」

笑いながら失礼なことを喋ってくれます。悪びれた様子など微塵もないのです。

「ふーん、まあ、血圧でも計っとこかねえ」

「血圧はさっき待ち合いでみんなが計っとけっていうもんでもう計った。悪うはないと云うとった。みんなと話してると楽しいで」

「お滝さんでも独りだと寂しいことがあるんかい」

「そりゃあ、えんせ、儂だって悩みもあるし辛えこともあるだで」

ちょっと悪戯心が湧いてきました。なおも婆さんに訊いてみます。

「何やの、お滝さんの悩みって。息子さん夫婦もすぐ隣に住んどるし、娘らもみんな嫁にいって、都会で上手くやっとるんだろ。金に困ったようなこともないんやろ。恵まれとるんと違うんか」

「せんせはまだ若いから知らんと思うけど、歳取るっちゅうんは惨いもんだで。倅なんかあてになりゃせんし、嫁なんかもっと酷いだ。娘らは何をしとるんか知らんけど顔も見せんが」

素晴らしい応答が返ってきます。

「何が辛いの。死ぬことが怖いのかい。それとも何か他の悩みかい。ところで、お滝さんは今年幾つになったんかいねえ」

ちょっと婆さんの視線がたじろぎました。

「もう歳やもんな。みんな忘れてしまうだ。嘆いてもどうにもならんがの」

答えられぬようです。前回訪ねたときは六十七になるって答えてくれたのですが。

「誕生日はいつだっけ」

「そんあことはどうでもええで。早よお迎えが来て欲しいもんだが、まだかのう。楽にころっと逝く薬、せんせは持ってないのんか」

「そんな薬があるんなら教えてや。ないかのう、あるとええんじゃがのう。ところで血圧はどうだったの。記録紙はどうしたんだい」

「さあ、どこへやっちゃったかのう。もうええんじゃ、こまいことなんて。生きとるって判りゃそれでええ。生きとるうちは生きる。死ぬときにゃ死ぬ、みんななあ」

何やら立派な哲学者のような言葉が出てきます。

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