第百話:『朝の散歩への誘い その弐』

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 だいぶ明るくなってきたね。そうそう、ほら、あそこを見て。山の斜面に細い道がずっと続いているでしょ。何が通う道か、判るかい。鹿や猪がね、夜毎、川へと下る通い路なんだよ。そう獣道なんだよね。夜遅くに通りかかるとさ、出会すんだ、彼らとさ。車なんかそんなに恐れていないよ、道の真ん中でさ、どこうともしないんだよ。まるでサファリパークだよね。あれっ、いま山雀(やまがら)が鳴いたね。ほら、ほらっ、ツーツーピーッ、ツウ、ツウって。杉の木のてっぺんでゆったりと鳴いてるよね。あれが山雀。ほらっ、こんどは向こうでも鳴いたね。張り合ってんだよね、縄張りをさ。おっと、こんどは小綬鶏だね。チョットクレ、チョットクレって煩いね、全く。

 池が見えてきたね。あれはねえ、何年か前に休耕田に水を張ってね、地元のひとたちが睡蓮を植えたんだ。梅雨の頃から秋風が吹き始める頃までそれはそれは美しい花が見られるんだよ。いまはようやく芽が出始めただけだね。ちっちゃな葉が開き始めたものもあるねえ。春が来ればちゃんと芽を出して、蕾みを準備して、やがて夏ともなれば花開く。大したもんだよね、命ってさ。ねえ君、そう思わない?

 この家の婆ちゃんは花作りが好きみたいだねえ。水仙、木瓜、馬酔木、どれも美しいね。でも独り暮らしで寂しいんだろうね、老い先の不安もあるんだろう。時折、鬱になってさ、いや、いまは元気だよ。少し前に診療所に来てたもの。

 あっ、車がきたよ、気をつけてね。山仕事へ行くごん爺さんだね。みんなお年寄りばっかだもの。下草刈り、枝払い、間伐など、どれも結構重労働なんだよね。労働力がもうないから、だんだんと山が荒れるね。ほらっ、ここらの杉や檜も、枝が伸び放題でしょ。良くないんだよね、こんなじゃ。枝を払い、下草を刈って、間伐をして、もっと十分に陽が差し込むようにしなきゃ。

 大丈夫ですか?疲れてないかい。いやもうすぐ折り返しだからね。お腹も空いてきたよね。きっと朝ご飯が美味しいよ。ほらっ、そこに顔を出してるでしょ、蕗の薹だよ。これを少しばかり摘んでね、お味噌汁に入れるんだ。春の香りが沸き立ってね、何とも云えないぜ。いやいや余り採り過ぎなくてもいいんだよ。食べる分だけをほんの少しだけ頂くんだよ。それで十分でしょ。自然のままに、あるがままに、これが一番だよね。

 ほら、あの山のとこ、山桜が咲き始めたね。この時期だけだよ山桜に気づくのはね。人間もそれでいいんじゃないかな。世間に認められる、認められないのは関係ないことだよ。でもね、もしひとの役に立っているとしたら、もう望外の幸せっていうもんだろ。あの桜は別にひとに見てもらおうとか、喜んでもらおうとして咲いているんじゃないものね。ただ春が来ればそこに咲く。誰が認めようが、認めまいと、ただ精一杯に蕾みを付け、花を開くんだ。

 あっ、一首浮かんだ。聴いてくれる。

「これほども あるとは知らず やまざくら

                かそけき紅に こゝろ騒がる」

 やっと帰ってきましたね。気分は如何です。気持ちよかったでしょ。ほら、筍診療所に戻ってきました。この桜の樹を見て下さい。大きなもんでしょ。樹齢どのくらいなんだろ。ある婆さんがね、この桜はわたしが子供の頃からこんな大きさだったと云ってました。随分老いてはきてますけどね、でも頑張っているんです。蕾みが少し見えるようになってきましたね。あと一ヶ月もすれば開花の時期を迎えるよ。それは見事なもんですよ。風情溢れるとこでしょ。満足できましたか?これにて朝の散歩はお仕舞い。

 はい、お疲れさま。

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