第百三話:『生まれ落ちたる幸せ』

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 いまでは遠い昔の如月の二十日余り四日、時折雪が舞い来る寒い寒い晩だったそうな。遠く近江の伊吹山を越えて吹きつのる空っ風が、板戸をぴしぴしごとごと鳴らす夜更けのこと。

 夕餉の団欒も終わり、皆がそろそろ寝間の布団に潜り込み、寝静まろうかする丁度その頃、まだ二十歳になったばかりの新妻が俄に産気づきました。伊勢湾を囲い込むように造成された堤防のすぐ突端の実家に戻り、臨月のお腹を抱え、初産のその刻に備えておりました。潮騒がすぐ枕元まで押し寄せるような生みのすぐ傍らの懐かしき陋屋です。

 折よく実家を訪れていた新郎はリヤカーに布団をたっぷりと敷き詰め、慌ただしくも優しく新妻を乗せ、二時間近くも掛かろうかという遠く離れた産婆の家まで運んだのです。堤防上の暗い夜道を照らすのはリヤカーの把っ手にぶら下げたカンテラばかり。枯れ芒が道の両側から覆い被さるように茫々と茂り混んだ雪吹き荒ぶ道を、新妻の容態を気にしながら黙々と歩んだのです。

 なかなか出産のその刻はやってきませんでした。控えの間で焦れて待つ新郎の耳にか弱い産声が聞こえたのは、もう鳥たちの囀りが始まらんとする払曉の頃でした。長男誕生です。頭ばかりが矢鱈と大きな「どんこ沙魚」のような痩せた赤ん坊だったと云います。

 それでも母子共々さしたる障りもなく、何とか産褥の期を乗り越えました。数週間後には退院。妻は生まれたばかりの赤子を胸に抱え、夫はリヤカーに蒲団やらお襁褓やらの荷を載せて、実家まで歩いて帰ったのです。春の気配色濃くなり始めた弥生半ばのことでした。

 真っ暗な夜道を産気づいた新妻をリヤカーに載せて運ぶ乳の胸中には、果たしてどんな想いが浮かんでいたのでしょうか。そのときのことを訊きたいと願っても、もうとっくの昔に適わぬこと。身重の母は荷台で揺られながら何を考えていたのでしょう。折りあらば訊ねてみたいと考えております。

 生まれ落ちたる幸せに感謝しつつ。

 

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