『実石榴の落ちてルビーに成りきれず』 上石哲男
第三十六話に掲載した源二郎爺さまのこと覚えておいででしょうか。「何処へでも注射を」に載せた爺さまです。先日お亡くなりになりました。安らかな死に顔でした。このところ俄に食欲が落ちておりました。筍は例によってなーんもせんと看ておりました。死因は昨今では珍しくなった「老衰」としました。
ひととおりの死亡確認をしたあとで娘さんにお訊きしました。
「今どんなお気持ちですか」
泣き腫らした目で答えられました。
「病院でも施設でもなく、おとうさんの望み通り、この部屋で死なせてやれたことで満足です。お父さんもこの部屋を建ててからは、もう自分の家に戻るとは一言も言わなかったですし」
それにしても何か筍の心に引っかかるものがあるのです。爺様の望みは自分の家で死ぬことでした。娘さんの世話にはなりたくなかった筈です。”早く死なせてくれろ”とばかり、”筍にどこへでも注射を”とせがんだのです。爺様の望んだことを筍は何一つ出来なかったのです。
源二郎爺さんと娘さんの間は最後まで心通わぬものがあったように思います。父娘でありながら、何故にあの様な切なく悲しい人間関係とならねばならなかったのか。爺様は遠慮のためか、娘さんの世話を悉く拒否し、娘はその拒否に居たたまれず接触を憚る。関係は冷えきっていたのです。そのどちらも甚く善人なのです。
それでも葬儀ともなれば、
「大往生だったねえ」
「これで爺さんも漸く楽になれたねえ」
「貴女も大変だったわねえ。これで漸く楽になりましたね」
こんな言葉で爺様の人生は総括されるのでしょうね。
相手を思い遣る心
相手の立場を尊重すること
相手の気持ちを忖度すること
これがお互いに乏しかったのだと思います。人間関係の基本はここにあるような気が致します。
「雲をいでて われにともなう 冬の月 風やみにしむ 雲やつめたき」
— 明恵上人 —
無力な筍はただただ患者さんの横に添い、ただおろおろとするばかりです。
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