かず婆さんは今年八十歳、最近いよいよ腰が曲がってきて、蝦の二つ折りのようです。先日、お風呂場で足を滑らせて尻餅をついた拍子に左手関節をしたたかに打ち付けてしまったらしい。近所のひとが診療所まで運んできました。
「だいぶ腫れとるねえ。痛むかい」
婆さんの左手を優しく握り、患部を摩りながら骨折の有無を調べます。親指側の手関節を中心とした辺りがかなり腫れており、内出血もあります。
「ああ、ちっとばかし痛むで。あいたたったっ。押さえたら痛いで。乱暴にしたらあかんが」
かず婆さんの機嫌が崩れてしまいました。筍に手を握られるのはどうも好かんらしい。
「ちっと我慢しいや。触ってみんと判らんでの」
筍は婆さんを宥め賺しながら、さらに診察を進めます。
「痛てえとこ、わざわざ触らんでも、レントゲン撮りゃ判るだろ」
婆さん、かなり怒ったようです。
「それもそうだのう。じゃあ、レントゲン撮ろうか」
筍は素直です。
レントゲンの結果では幸い骨折はありませんでした。弾力包帯固定だけで済みそうです。
「よかったねえ、かずさん。折れとりゃせんで。湿布してこの包帯で暫く固定しておけばいいよ。まあ、二、三週間もすれば良くなるから」
「この包帯、いつも巻き替えねば如何かね」
かず婆さんが訊ねます。
「弛んでなけりゃ、まあお風呂に入るときだけ巻き替えればいいから」
「でもな、せんせ。風呂でこけてから、何や肩も痛いし、腰も痛むで。大丈夫やろか、動かんくなるようなこと無いんかのう」
不安そうです。一応、肩も腰もしっかりと診察させて頂きました。
「大丈夫だよ。手をついた時にちょっと捻ったんじゃろ。そのうち楽になるから」
それで素直に帰るほど、かず婆さんは甘くはない。
「ところでこの包帯はいつもいつも巻き替えねばいかんかね」
「弛んでなけりゃ、まあお風呂に入る時だけ巻き替えればいいから」
同じ答えを繰り返しました。
「肩の痛みもあるし、腰も痛いし、大丈夫やろか。儂ゃ、心配だで」
「転けたときにちっと捻っただけだからすぐにようなるで。心配いらんで。はよ帰って、爺さん安心させたらにゃ」
この辺りから、だんだん疲れてくるのです、筍としては。でも婆さんはまだ診察台に腰を下ろして立ち上がる気配はありません。
「爺さんは隣の真由美さんが来てくれとるから大丈夫だ。包帯はいつも巻き替えんとあかんのかね」
「弛んだら巻き替えなあかんで。弛まんけりゃ、そのままでいいから」
まだまだ、かず婆さんの攻撃は続きます。誰かの助けが欲しい筍でした。
「でもな、せんせ。大丈夫やろか。肩も腰も痛むしのう」
「かずさん、どんな道具だって八十年も使えば錆びもするし、ちったあ具合も悪くなるわな。いまのように爺さんと二人で新婚みたいな生活ができとりゃ、えらい幸せもんだわなあ、あんたらは」
「そやろか。わしゃ爺様と二人では心細うてどもならんが。息子に帰って来てくれと云うんじゃが、仕事が忙しいかして、なかなか来てくれんで」
「爺さんでも、婆さんでも、どっちかが倒れたら、いまみたいな生活できんくなるからねえ。貴重な時間だわな、いまの時間わさあ。せいぜい楽しんでおかんとなあ。感謝せにゃいかんが」
かず婆さん、頼むし帰ってくれよと心の中で叫びつつ、筍は半ば失神しながら婆さんの相手をしておりました。
「そうそう、せんせ。帰る前に訊いておかねばならんかった。包帯はいつも巻き替えんとあかんのか」
「一時間に一回は巻き替えんとあかんで。包帯が弛んだら手が腐ってくるで」
「またあ、せんせは冗談好きやのう。風呂に入った時だけでええと、さっき云うとったがな」
そやったかのう、覚えておらんの。もう、ものいう気力がのうなったんじゃ。
今日の診療はこれでお仕舞いだっ!
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