第百一話:『むすめよ、おまえもか!』

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  お房婆さんは今年八十九歳、まだまだ元気です。二、三週間毎に規則正しく外来受診されております。ある日のことです。お房さんを診察室に呼び込んだ時のことです。お房婆さんについてもう一人の婆さんまで入ってきました。

「あなたは?」

「こんひとが最近妙なこと云うんで、心配でついてきたんだ」

「お房さんとはどういう関係なの?」

「あら、やだあ、せんせい、わたし、お房の長女」

そうは云われても、どう贔屓目に見ても、筍の眼には、お房さんと同じくらいのただの婆さんに見えるのです。

「妙なこととはどんなことなの?」

「わたしが惚けてきたもんだから、この娘が心配してねえ。どうしてもついてくるって、きかんもんだから」

お房さんはなんだか恥ずかしそうです。

「その変なことって、いったい何だ?」

「何度も何度も電話をかけてくるんです」

むすめ婆さんが応えます。

「元気な証拠でいいじゃないか。何度でも母親の声が聞けてあんた幸せもんじゃ。母親と話したくとも話せないひとがいっぱいいるんだよ、世の中にはさあ」

「でもせんせ、このひと、糖尿の気があるって云われたとか、それにこの前はコレスリが高いとかで、薬もらったとか」

「何だ、そのコレスリって。コレステロールのことかい?」

「そうそう、それそれ。どっちなんですか、せんせ。はっきり云って下さい。私にだけは隠さんと」

「誰も隠してなど居りゃせんが。どっちも正しいよ、お房さんの云う通りだ。でもな、糖尿も、コレスリの高いのも、ちゃんと薬を飲んどけば、なんも心配ないで」

「ほらっ、私が云った通りだろ。この娘ったら、私の云うこと、全然信用せんし」

お房さん、我が意を得たりと俄然反撃に転じました。

「あんたは黙っとき。今日はせんせに正確なとこをきちんと説明してもらうんだから。せんせ、本当に大丈夫かいな、このひと」

「なにをいったい心配してるの、あんたは。それに母親のことを、“このひと、このひと”って呼ぶのはあんまり褒められることじゃないで」

「だって糖尿だとか、コレスリだとか脅かすし。それにこのひと、いや違った、母さん、最近惚けてきてるし。わたしゃ心配で心配で夜も眠られん」

果たして、どっちが惚けてんのか、筍にはよう判りません。

「お房さん、あんたは自分のこと、惚けとるって思うかい?」

「はい、何でもよう忘れるで」

自分自身に自覚のあるうちは認知症もまだまだ軽症です。

「娘のあんたはどうだ。惚けとるって思わんか」

「せんせっ、そりゃあんまりだ。わたしはただこのひとのことが心配で心配で、夜も寝られんのじゃ。だから来たっちゅうに」

自覚は全くないようです。むしろこっちのほうがある意味、重症じゃないんかねえ。

「いやいや、気に障ったのなら謝るけどね。でもよう聞きや、人間、誰でもお房さんくらいの歳ともなれば、多少は物忘れくらいするさ。でもな、あんたの母ちゃんはしっかりしとる。大したもんじゃといつも感心しとるんじゃ。あんたも自然の決まりをきちんと受け入れなあかんで。誰でも通る道なんじゃ。仮にだ、母親が惚けてもええじゃないか。惚けた母親をそのまま受け入れてやるのが、親孝行っちゅうもんじゃないのかい。あんたが夜も寝られんくらいに心配しても、悩んでみても、何の効果も得られやせん。むしろ、あんたが年取っちまうで。睡眠不足は美容の大敵じゃからの。いずれあんたの番も遠からず来るでの。覚悟しとかんとなあ。準備せにゃあかんで」

 筍はむすめ婆さんにこう諭したのです。ですが、返事はまた例の問答の繰り返し。

「でもわたしゃ、心配で心配で、夜も寝られん。だから今日は付いてきたんだよう、せんせい、このひと、ほんとに心配ないんか」

こりゃ、娘よ、婆さんむすめよ。

筍はお前のほうが心配じゃ。

病は重いぞよ。


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