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 謝恩会の終了後、外科学講座に入局予定の同級生は教授に引率され、かねて憧れの“北新地”へと繰り出すことになったのです。このため父は独りで私が住むアパートへと帰ることになりました。私鉄の駅から歩いて十五分程の閑静な丘陵地帯一角にそのアパートはありました。父にとっても既に二度程来たことのある買って知ったる場所のはずでした。大学から一時間もあれば確実に帰り着ける距離です。当時、私は前年の秋、既に結婚して居りました。

 父独りが先に帰る旨、妻には連絡を入れておきました。ところがいくら待っても父は現れなかったそうです。彼女も相当に焦ったようですが、為す術もありません。ひたすら待ち続けたようです。私のほうはそんなこととは露知らず、もっぱら仲間達と初めての北新地を楽しんで居りました。午前様でした、アパートに帰り着いたのは。玄関には興奮した面持ちの妻が待ち構えて居りました。父はもう寝入って居りました。何でも駅からアパートへの道に迷ったようなのです。さんざん歩き回って、漸く辿り着いたのは大学を出てから既に四時間も経った頃だというのです。三時間余りも見知らぬ街をうろうろしていたことになります。果たして父は何を考えながら彷徨い歩いていたのでしょう。電話を掛ければ良さそうなものですが、肝腎のメモも無くしたらしいのです。

 漸くのことにして、何とか父は筍のアパートに辿り着きました。妻と茶を啜りながら疲れた顔で父が話したそうです。

「私は時代が時代だったので家業は当然長男が継ぐものと考えていた。嫌家業を継いだことは今でも何の後悔もない。けれど今日、自分の長男が自ら希望した医者になる夢の実現のための第一歩、医学部卒業を目の当たりに出来たことは、私の人生のなかでも一、二を争うほど嬉しいことだった。私が帰った後にでも、葉やったと云ってやってくれ」

「お父さんから直接あの人に云ってやって下さい。あの人もとても喜ぶと思います」

「いや、あいつはそんな男じゃない。かえってつっけんどんな態度を取るだけだよ。それに云わんでも十分判っとるだろ」

と笑っていたそうです。父が帰った後、妻からその話を聞きました。

 だいたいそんな歯の浮くようなことを言う親父じゃなかったのです。高校の頃、医学部受験を決めた時も何の反応もありませんでした。受験に失敗して一浪と予備校通学の許可を貰った時もただ

「そうか・・・」

の一言だけだったのです。予備校生となった五月と六月はなかなか受験勉強に身が入りませんでした。六月も既に半ばを越えたある晩のことでした。当時、筍は仲間と連日酒に入り浸って、夜遅くあるいは未明に家に戻るといった、とても受験生らしくない自堕落な生活に明け暮れて居りました。ある晩、家に帰り着いて間もなく、酒で灼けた喉の渇きに耐えかねて、流し台の蛇口に直接口を付けてゴクゴク水を呑んでいたのです。その時でした。突然背後から声を掛けられました。やはり一言だけでした。

「大丈夫か、お前は」

静かな落ち着いた声でした。怒りの感情はひとかけらも含まれていなかったように思います。

 父を振り返ることはとても出来ませんでした。黙って流し台に頭を垂れて、その言葉の重さ、その余韻をただ噛み締めて居りました。父はその一言だけですぐまた寝室に戻ったようでした。暫く流し台の前に立ち尽くしておりました。あの晩からでした。何とか受験生らしいペースを取り戻しました。

 「よく意を通ずるは短き言葉にこそあり」

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