『庭の花梨』

 

 一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。そろそろ三時間が経とうかという頃、遠く病院ロビーの海鳴りの如き喧噪も静まり、それに変わるように病棟廊下を配膳車が慌ただしく運び込まれる。私たち家族の他にも手術が終わるのをひたすら待ち受ける数人だけだけが、まるで別の世界に置き捨てられたように、落ち着かぬ様子でただ黙然と座り込んでた。顔見知りとなった外科病棟の看護婦さん二人が手術室へ入っていった。

 間もなく手術室のドアが左右に押し開かれベッドが運び出されてきた。酸素マスクをあて、鼻に管が通された、青白い顔をしたお父さんが横たわっていた。何か得体の知れぬ不気味な力が、絶えずお父さんの身体を揺さぶってでもいるかのように、お父さんは小刻みに全身を震わせていた。私たちは思わず駆け寄り、「とうさん」、「お父さん」と大声で呼び掛けた。うっすらと目を開けた父さんが母に気付いて、こくんと頷いてくれたとき、私は理由もなく、「ああこれで父さんは助かる」と感じられた。

 小山田先生が手術の説明をするというので、母さんと姉さん、そして私の三人が別室に招き入れられた。癌は既に腹膜にまで拡がり手の施しようがなかったと淡々と説明される先生の横顔を眺めて、私は不思議な気がしてならなかった。何故この先生はこんな悲劇をこんな白けた顔で語れるのだろう。すぐに涙が溢れ出て、先生の顔も、お母ちゃん、お姉ちゃんの顔も見えなくなってしまった。余命三ヶ月、早ければひと月しか保たぬかもしれないということだった。竹内先生から癌の宣告を受けてからまだ二週間しか経ってないのに・・・。私たちの世界はまるで変わってしまった。

 重い足取りで病室に戻った。父は手術の疲れか麻酔薬の影響かよく寝入っているようだった。私たちはただただ父の顔を眺めていた。夕方、お姉ちゃんの御主人が仕事帰りに寄ってくれた。病状と手術のことは姉ちゃんが話すというので、二人には先に帰ってもらうことにした。

 父が目覚めたのはそれから暫く経ってからだった。薄く目を開けたお父さんは何か訴えるような、縋るような目をしていた。

「どうやった?」

 お父さんが尋ねた。とても本当のことは云えず、手術は成功だった、胃は全部摘出した、何処にも転移してなかったと聞いた時の、父のほっとした顔が今でも忘れられない。胃潰瘍と云ってたのに、お母さんが何処にも転移がないと答えたときにはちょっと慌てたけれど、お父さんはうんうんと頷いて嬉しそうだった。

 とても本当のことは云えない。絶対に隠し通さなければ。主治医の小山田先生は隠し通すことは並大抵のことじゃないと仰った。でもどうしても本当のことは云えなかった。

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