第二話:クリニック開設に関する考察−1

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 「今なぜ、私はクリニックを開設しようとの決心に至ったのか」、それについて若干考察してみたいと思います。

 医師になってすでに三十七年が経過致しました。卒業後は母校の大学病院の外科学講座に入局、大学院博士課程にも進学致しました。外科医としての大学病院生活は都合二十五年間にもなります。食道癌、胃癌、大腸癌などを中心とした消化器癌を中心に、外科医としての修練を積みました。外科学研究室に席を置き、外科代謝栄養学や侵襲学などの研究や、医学生や看護学生の教育にも没頭致しました。多忙でした。

 

 そんな中で忘れ得ぬ患者さんとの出会いもありました。大手電気会社で重役を勤めるMさん。初診時は今の私ほどの年齢でした。病名は大腸・直腸癌の同時性重複癌、おまけに肝転移まで合併していました。初回手術は大腸直腸切除と人工肛門造設術、次いで、ほぼ3週間後に肝部分切除術を施行しました。2回の手術とも何ら問題なく経過致しました。術後、当時の標準的な癌化学療法も施行し、退院となりました。四年後、肝転移が再発しました。転移巣は1病変のみ、二度目の肝部分切除術となりました。続いて二年後、三度目の転移巣が出現、これも手術致しました。続いて一年後、またまた肝転移巣出現、これも手術しました。6回目の手術でした。この半年後、再度転移巣が見つかりました。

 Mさんが言われました。

「先生、ここまで何度も手術をやってもらって、もう十分長生きさせてもらった。でも今度はもういい。そろそろ諦めるべき時だ。入院はもう嫌なんだ。ついてはお願いがある。住み慣れた自宅で死にたいのだ。先生に看取って欲しい。死亡診断書を書いて欲しい」

 今でこそ在宅医療は随分展開されるようになりましたが、当時はまだまだの状況。ましてや、「在宅末期がんホスピス治療」を手がける大学病院など皆無でありました。ですが、Mさんとはもう十年近い付き合いです。何とか応えてあげたかったのです。

「Mさん、ご承知のごとく私は大学病院で酷く多忙な毎日を送っています。もし仮に貴方の容態が急変した時でも直ぐには対応できませんよ。それでも良いのですか」

「そんなことは百も承知だ。もしわしが死んでも慌ててくることはない。大学の業務が終わってからゆっくりと来てくれたらいい。もしそれが夜だったら、朝になってから来てくれればいい。夜中に駆けつけてくることはない。ともあれ先生の名前で死亡診断書を書いて欲しいのだ」

 大学病院へ通院できるうちはともかく通院して頂くこととして、急遽、在宅医療チーム立ち上げに努力致しました。医師、看護師、薬剤師、栄養士さんに声を掛けました。結果、集まってくれたのは看護師さん五名だけでした。でもこれで何とかやれそうです。皆で在宅末期がんホスピス治療の勉強会などもして、その日に備えました。こちらも初めてのことですから、医療費請求などは一切せず、薬品などの処方は外来扱いとしての実践としました。

 数ヶ月後、Mさんは次第に通院困難な状況となりました。非番の看護婦さんとともに、空いた時間にご自宅へ訪問致しました。病勢は日ごとに悪化していきます。触ると手が染まるかと思えるほどに黄疸が進行し、腹水も胸水も貯留してきました。意識レベルも次第に低下し、日がな一日、うつらうつらの状態となりました。

 そんなある日、訪ねた筍が状態を診察後にそろそろお暇しようとしたその時、Mさんが目を開けられてこう云われました。

「先生、永らくお世話になった。有り難う。そろそろお別れせんならん時が来たようだ」

 筍の判断では、死期は近いものの、あと数日は大丈夫だろうと高を括って居りました。でもその日の未明、お亡くなりになられたのです。ご家族に後からお訊きしたことには、あの日筍が辞した後、突然で悪いが今から親戚一同を呼んでくれとご家族に頼まれたそうです。急遽集まった親戚ご一同に、今までの厚情に感謝の意を表され、残されるであろう家族のことを宜しく頼むと挨拶なされたとのことです。その後、親戚ご一同を帰した後、息子さん二人に風呂に入れてもらい、生前お好きだった大島紬の和服に着替えられ就寝。数時間後、静かに息を引き取られたとのことです。

 何と言う御最後でしょう。家族に見守られ、住み慣れた自宅での閑なる死、まさに理想とすべき完結ではありませんか。

 これ以後、筍と我がチームの看護師さん達は在宅末期がんホスピスケアに嵌ったのです。

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