今は昔、浅市のとっつぁんがまだ若い頃、とっつぁんには想いを寄せる娘が居りました。山ひとつ向こうの隣部落に住む可愛い娘です。娘もとっつぁんが好きでした。でも内気な浅市は、「嫁にくれろ、嫁に来てくろ」などとは、とてものことによう打ち明けられません。山奥の暮らしは貧しくて、二人が添い遂げることなぞ夢のまた夢。山での枝打ち、下草刈りに精を出し、夕餉までの僅かな時間を惜しみ、猫の額ほどの田畑を耕すのです。
あっという間もなく一日は過ぎていきます。それでも浅市は疲れた身体も厭わずに、満天の星がさんざめく夜も、篠突く雨に濡れる夜も、夕餉のあとには山を越え、娘の元へと通いました。せっかく娘の家にいっても逢えぬことが屢々でした。娘の家も貧しいのです。夜なべ仕事で藁草履作り、これでびた銭を稼がねばなりません。娘の家の傍らの一本杉の根方に座り、娘が板戸を開けて出てくる刻を、ただ黙然と膝を抱えて待ったのです。娘と過ごすその甘い目眩くような時間を、ただひたすらに待ったのでした。
緑滴る夏が過ぎ、野分けの風の秋が来て、そして、凍てつく木枯らしの冬がようよう明けたある晩のこと、いつものように浅市は一本杉へと急いだのです。胸弾ませて辿り着いた浅市を待っていたのは、愛しい娘ではなく、その親父でした。
「もう娘には逢わせねえ。よそへ嫁にやるからもう来るな」
足取り重く家に戻りました。世はまさに春まっさかり。去年までは惚けたように眺めた川の堤に茂る見事な桜の大木も、今年は心が凍て固まって、何の感慨も湧きません。うす桃色の花びらが春の風に吹き取られ、舞い上がり舞い下りて、水面に集いまた流れても、浅市は堤の小道をとぼとぼと歩くのみ。そして、山に杜鵑が鳴く頃、浅市の姿は部落から消えました。
浅市は川を下り河口の町へ、そして最後にはもっと大きな都会の真ん中にまで流れました。寄辺ない浅市に出来る仕事といえば日雇いの土方仕事。都会の塵の吹き溜まりのような襤褸アパートで、それでも彼はただ黙々と働いて居りました。誰に迷惑をかける訳でもなく、限りなく実直に、ただ生きるためだけに生きて居りました。朝から晩まで鶴嘴を振るい、汗と土に塗れ果てて居りました。もともと丈夫ではない彼が病み衰えるのに、そう大した時間は掛かりませんでした。
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