大学が理解を示さぬのであれば致し方ありません。実践あるのみです。4半世紀勤めた大学病院を去る決心を致しました。そして飛び込んだのが世界遺産のルートから山一つ外れた熊野の僻地診療所、そこで何が為せるのか、何が成せないのか、八年間の山籠りとなりました。
そこには有るべきものが何も無いことに、しっかりと耐えることのできる爺婆たちが、ひっそりと暮らして居られました。医療・介護のマンパワーはほぼ皆無と云ってよい状況の中で、ただ黙して、実に平穏な暮らしを営んで居られました。皆々例外なく、次第に老いて、病んで、終には逝かれます。当時、自らを“筍医者”と称するようになっておりましたが、薮にもなれぬ筍が、何もできぬまま、ただ横にいるだけの状況では、熊野の爺婆たちはじたばたしても始まりません。多くのお年寄りが閑かに悠然と逝かれました。余計なことは一切しないという医療の重要性と医療人として何もしないことのしんどさを思い知らされた八年間でした。
いま思うのです、日本人に哲学がないことを。生死についての常識も、生きとし生けるものとしての節操さえも忘れ果てた患者さんやご家族がいかに多いことか。いや医療人ですらそのような方々が多いのではないでしょうか。「いい医者にかかりさえすればどんな病気も治る」、などとの錯覚はその最たるものです。「病院にいるのに死ぬなんて、何か失敗があったのでは?」などと声高に叫ぶ風潮、実に嘆かわしい限りです。「ひとは中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ」といったのは、確か寺山修司でしたか。私たちは完全な死体になる日までに、生きることの意味と死の実相について、考えを纏め上げねばなりません。生の終え方・死の有り様に関して哲学を持たねばなりません。難しいことではありません。熊野の爺婆たちは至極容易くこれを為していたのですから。
最後に医療・介護に関わる全ての人々に伝えたいことがあります。医療職・介護職になくてはならぬ資質、それは「共感する心」です。病いに苦しみ、不安に苛まれ、死に逝く人々を前にして、果たしてその感情に共感できるかどうかです。ひとはみな、いつか必ず病を患い、死にゆくものです。この点において、患者さんはまさに我々の先きを行くひとたちです。先達です。そのひとたちに「共感できる心」を持っているならば、あなたは間違いなく患者さんに優しいよき医療者、良き介護職になれます。だって、全ての患者さんがマンツーマンで、いつでもあなたを鍛え、指導し、導いてくれるのですから。
あなたは「共感できる心」をお持ちですか?
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