第七十四話:『浅市のとっつぁん その五』

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 隣部落の駐在さんに、とっつぁんからの電話が再々掛かるようになったのは、いまから三年程前からのことでした。

「泥棒にお金盗られた」

「隣の爺がおらの家に毒撒いた」

「裏のばばあがおらのうちに火いつけよった」

「みんなが儂の田んぼを踏み荒らしよる」

「駐在がみんなを嗾しておらがここに居れんよう仕向けちょる」

その都度、駐在さんはとっつぁんの家へと駆けつけます。ですが何にも起こってはいないのです。盗られたと思ったお金は枕の下に、撒かれた毒はご近所の爺さんが気を利かせて撒いた溜め込み便所の消毒薬、放火騒ぎは裏の婆さんが焼いた枯れ草の炎、田んぼを踏み荒らしたのは猪親子。駐在さんはその都度、確かな情報を得るため、ご近所を訊ねて回らねばなりません。

ですが筍診療所に来た時のとっつぁんは実にしっかりとしとるのです。風貌も穏やかで、質問にもちゃんと答えられるのです。若い頃にはさぞ活躍したろと思わせる程の威厳すら感じられるのです。

でも家に帰るとね、とってもおかしいらしいのです。田畑で働く誰彼なしに訳の解らぬことで朝も早よから怒鳴り散らすだとか、昼日中に素っ裸で庭先を走り回るんだとか、真夜中にご近所周りをぶつぶつ喚きながら彷徨き回る。もう皆、誰もとっつぁんの相手などしやしない。

そのうち、とっつぁんの被害妄想は益々昂じてきて、県警本部にまでも電話を掛ける。駐在さんは大変です。事情が解らぬ本部からは再々怒られるやら、呼び出されるやら。ホトホト困り果てたる気配です。

最近、とっつぁんはめっきりと弱ってきました。原因は簡単です。とっつぁんが自炊する食事のバランスが虚単に悪いのです。栄養障害がとっつぁんの体力を奪うのです。ですから施設入所させて栄養のバランスが取れた食事を取るとすぐにまた元気になる。体力がついてくるとそこの職員とうまくいかん。もう二度と入所はお断りだと宣告される。でもとっつぁん独りで置いておく訳にもいきません。都会に住む件ちゃんやみいちゃんに連絡しても、彼らには彼らの生活があるのです。それぞれの家庭を守るのに精一杯なのです。とてもとっつぁんの世話を看る余裕などないのです。もともと血の繋がりがないのです。はなから面倒看る気がないのかもしれません。  それにしてもね、浅市のとっつぁん、ひとを羨んだり、謗ったりなどしたこともない人生でした。金やものなどには縁もなかったし、また執着もなかったのです。ただ実直に生真面目に馬車馬の如く生きてきたのです。そんなとっつぁんが、何故いま、こんな妄想に取り憑かれねばならぬのか。ひとから受けるべき好意が少ない人生だったからなのでしょうか。もっと温かくされるべきときに冷たくされるばかりだったからでしょうか。

認知症の進行による被害妄想、診断は簡単です。どうしましょうかね、この先。独りじゃ置いてはおけんものねえ。

「耄碌したんだね」では済まないよね。

ひとは弱く、切なく、悲しいね。

老いは残酷です。

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