第百五十一話:『先施(せんし)の心』

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庭の山桃

庭の山桃

 

夢親

芳草萋萋日日新

動人帰思不勝春

郷関此去三千里

昨夢高堂謁老親

 

芳しい春の若草が勢いよく日一日と生い茂ってきます。この春の陽気が私に故郷のことを思い出させ、帰りたい気持ちで一杯になります。居ても立っても居られません。でも、ここは故郷からはあまりに遠く離れています。帰るに帰れないのです。昨晩、夢の中で、年老いた老親に会えました。きっと両親への想いが通じたのでしょう。

細井平洲先生は、享保十三年(1728年)尾張國知多郡平島村の農家の次男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、十七歳で中西淡淵に師事、十八歳のとき淡淵の勧めで長崎遊学、三年間中国語を学びました。二十四歳で江戸へ出、私塾「嚶鳴館」を開き、多くの人材を育成しました。

実学を重んじて、経世済民(世を治め民を苦しみから救う)を目的とした彼の教えは、大名から一般庶民まで幅広い層の心を捉えたのです。平洲が三十七歳のとき米沢藩藩主上杉鷹山の師として迎えられました。鷹山は平洲の教えを実行に移し、ひと作りを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君と賞賛されました。平洲と鷹山の終生変わらぬ師弟の交わりはあまりにも有名です。

安永九年(1780年)終わり藩主徳川宗睦の侍講となり、尾張藩校「明倫堂」の初代督学(学長)として藩学の振興に努めました。藩内各地で廻村講話を開き、庶民教育にも情熱を注ぎました。七十四歳にして江戸で没、墓は東京浅草天嶽院にあります。平洲の教えは幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたと云われ、また内村鑑三は細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。わが故郷の偉大なる先人です。

細井平洲先生がよく使われたという言葉の一つに「先施の心」というものがあります。先施とは先ず施すということ。相手からの働き掛けを待つのではなく、自らが先に動きなさいということです。難儀なことをやるなら先ず自分が率先、ひとと意見がぶつかったら先ずは譲る、他人に頼らず自分が良いと思った処を為す、といった意味でしょうか。

ちなみに平洲先生の号は「如来山人」、如来山内科・外科クリニックの名の由来です。

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