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                 実りの秋

 

 世に終活ビジネスが盛んなようですね。終活カウンセラーなどという職種もあるようだし、検定試験をやっている一般社団法人まであるのですね。何でも金儲けの種にしますよね。

 でもねえ、筍には何か違和感というか、不快感というか、どうも釈然としないのです。

 勿論、自らの終焉を考えることは悪いことではありません。ですがねえ、実にいろいろな死に至るストリーがあるのです。一人一人、皆、違うのです。なんで死ぬか、どう死ぬかがね、生前からは読めないのです。

 ですがねえ、少なくとも、「エンディング・ノート」や「リビング・ウィル」とは違った方向の、「終活」という言葉には、なぜか嫌な商業主義を感じてしまうのです。人間の精神構造の中に沈殿した、汚泥の如き嫌な匂い、メタン・ガスが浮かんでくるような嘔気を感じるのです。

 Wikipediaによれば、「終活とは人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味する言葉だと。主な事柄としては、生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことなどなど。2009年の『週刊朝日』の造語という。

 確かに人生は突然暗転します。日常生活は、残念ながら、平穏無事なままは続きません。医師は人生を暗転させる舞台回し、患者さんに、突然、重病あるいは危篤などを宣告する。人生という舞台は、いずれ間違いなく暗転するのです。

 ある日突然、癌が告知された。突然、脳卒中で倒れた。突然心臓発作を起こした。さて、そこからです。舞台が暗転してからを、どう生きるかが試されるのです。

 

 幸いにして、治療可能ならいいですよね。舞台はまた明るく充実したものになるでしょうから。もし、回復不能だとしたら、そこからが人生の締めくくりを問われるのです。誰しも動揺します。誰しも死の恐怖と戦わなければなりません。

 想像してみて下さい。

 多くの死を看取ってきた経験豊富な医師達も、そんな人生の暗転を、時に経験しなければなりません。

 看取りのスペシャリストとして、一般人よりも少しは死の実相を理解しているだろうから、そんな立場に至った医師達は、果たして、従容として死を受け入れられるのでしょうか。

 とんでもありません。違うのです。

 そういった先輩医師達の手記などでは、「今まで俺は患者の死をどう捉え、何を理解してきたのだろうか。何も理解できていなかった。ああ、恐ろしい、辛い、悲しい、嘘であって欲しい、間違いであって欲しい」と。一般人と全く同じです。

 死は経験できません。死は選べないのです。終活カウンセラーなんてチャンチャラ可笑しいのです。自らの死を経験してもいないのに、他人の終末のカウンセリングですって。やれる訳はずもないのです。やれることといえば、どうせ些末なことばかりでしょう。そんなものに踊らされてはいけません。

 筍は強調しておきたいのです。

 生きることに専念すべきです。「生き生きて逝く」のです。よりよく生きることこそが、よりよく死を迎えられるのです。

 でも、「よりよく生きる」ことって、どう生きることなんでしょうか。

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